2007年、写楽・江戸文化研究家、内田千鶴子(1943~)が上梓した
‘写楽を追え 天才絵師はなぜ消えたのか’(イースト・プレス)に蔦屋重三
郎が小説風に生き生きと描かれているので、少しふれてみたい。対話形式で
話が進むのが‘第三部 蔦屋重三郎が見出した男 写楽はこんな絵師だった’。
写楽に会った蔦重のセリフからは写楽にかける賭ける意気込みがひしひしと
伝わってくる。
重三郎 ‘通油町版元・蔦屋重三郎’と申します。お初にお目にかかります。
隣家の春海先生や北島町の千陰先生からご紹介にあずかりまして’
十郎兵衛 ‘承っております。私は、斎藤十郎兵衛と申します。阿波藩中屋敷
で能役者をつとめております’
十郎兵衛 ‘私の家は代々能役者の家柄。絵はほんとに手なぐさみでありまし
て、役者絵を描くことなど、私ごときにつとまるものなのでしょ
うか’
重三郎 ‘先日、あなたがお描きになった五代目白猿と半四郎の役者絵を見
て、びっくりしました’
十郎兵衛 ‘あれは、春海先生が欲しいとおっしゃったので差し上げたものです’
重三郎 ‘とにかく、あなたにこの五月興行の三座の芝居絵を描いてもらい
たい。七月は盆狂言、八月は夏狂言、十一月の顔見世興行、閏
十一月興行、そして翌年の正月興行まで、私はあなたに賭けてみ
ようと腹を決めた。眼光から発する目の輝き、頑強な肉体。あな
たに会った瞬間、この人なら大丈夫だと思った’
十郎兵衛 ‘私は本職の絵師ではありません。私の腕で、そんな大それたこと
がつとまりますか?’
重三郎 ‘体に似合わず、気の弱いことをおっしゃる。私はこの御改革やら
出版取締令でずっとお上から手ひどい仕打ちを受けてきた。なん
としてもここで一発、蔦屋としての鼻を明かさなきゃ。私の男と
しての意地が立ちません’
十郎兵衛 ‘やってみたい。やらせてください。命がけで、役者絵を描いてみ
たい’
重三郎 ‘やってくださるか。それは、ありがたい。白猿も南畝先生も了解
している’
重三郎 ‘必ず、いい役者絵が描ける。あなたなら生写しの役者絵が描ける
はずだ’
重三郎 ‘ところで斎藤さん。あなたは大名お抱えの士分。表立って名前は
出せない。あなたの素性を知る人物は、私と番頭の松蔵、手代の
幸吉、阿波藩中屋敷の柿崎様、それに南畝先生、春海先生、千陰
先生、芝居界の大立者白猿だけだ。あなたの身分は黙して語らず
、覆面絵師ということにしよう。そこで、画号をどうするかだが、’
十郎兵衛 ‘私は能の世界で生きてきた男。世間のことは、とんとわかりま
せん’
重三郎 ‘私は、今日早駕籠で通油町から伊勢町を抜け、江戸橋を渡り、こ
うして八丁堀にやってきたが、ここへ来るには舟のほうが手っ取
り早い。芝居町のそばの堀留から日本橋川へ入り亀島橋まで舟で行
けば、ほんのひと漕ぎだ。周囲をほとんど川と掘割に囲まれた、
いわば洲ともいえる所。もっとも、昔はすべて海だったようなも
んだ。方角といえば、八丁堀は江戸城から東だ。ということで、
東の洲に住む男、東洲斎。描くものは役者絵だ。芝居町と吉原は
江戸最大の娯楽場、楽しみの場だ。それを写す男、写楽。東洲斎
写楽という画号はどうかね?ちとじじむさいかな?’
十郎兵衛 ‘東洲斎写楽。いい、いい名だ。語呂もいい’
重三郎 ‘そうか、これで決まりだ。では東洲斎写楽、これでいこう’
重三郎 ‘お互い力を合わせ、江戸っ子の肝を潰してみましょうや’