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Channel: いづつやの文化記号
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美術館に乾杯! 国立近代美 その三

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Img_0002     バッラの‘躍動するイタリア’(1915年)

Img_0001     バッラの‘拡大+スピード’(1913年)

Img     ボッチョーニの‘フェルッチオ・ブソーニの肖像’(1916年)

Img_0003     ボッチョーニの‘洗練嫌い’(1912年)

日本画家の加山又造が若い頃のめり込んだイタリア未来派に大変魅了されている。そのきっかけとなったのが2度訪問する機会があったローマの国立近代美。これでバッラ(1871~1958)やボッチョーニ(1882~1916)らの作品にだいぶ目が慣れた。

そして、これがツキを呼び込んだ。2013年久ぶりにでかけたNYのMoMAでは必見リストに載せていた未来派のコレクションがなんとほとんど姿を現してくれた。明快な色彩と生き物が動くような抽象的フォルムのスピーディな展開が心を躍らせる。

国立近代美での主役はバッラ。これぞ未来派という感じの作品が7~8点並んでいる。とくにしびれたのが‘躍動するイタリア’と又造の馬の絵が連想された‘拡大+スピード’。バッラはボッチョーニやセヴェリーノとちがって人物や具象物の痕跡をまったくみせず三角形や円形といったキレのある幾何学模様を使って重層的でリズミカルな動きをつくっていく。これによって生まれる抽象美は本当にスゴイ!

ボッチョーニは5点あった。長くみていたのは画集で知っていた‘フェルッチオ・ブソーニの肖像’、ブソー二はボッチョーニと親交のあった作曲家。量感にある形をセザンヌを思わせる彩色が興味深い。そして、ごつごつした丸い顔だがキュビスム風な匂いもするブロンズ像‘洗練嫌い’にも足がとまった。


美術館に乾杯! 国立近代美 その四

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Img     モランデイの‘静物’(1918年)

Img_0001     モンドリアンの‘コンポジション’(1919~20年)

Img_0002     デュシャンの‘自転車の車輪’(1913~64年)

Img_0003     ヴィヤニの‘ヌード’(1951年)

20世紀モダンアートの展示室ではピカソやダリの作品は見当たらなかったが、イタリア人とほかの国の名の通った作家を半分々の割合で展示している。そのため、これまでまったく知らなかったイタリアのア―ティストの名前を両手くらい覚えた。

ボローニャ生まれのモランディ(1890~1964)は名前こそ知ってはいるが、お目にかかった静物画は2016年に東京ステーションギャラリーで行われた回顧展ぬ遭遇するまではミラノのブレラ美とここのコレクションくらいしかなかった。その貴重な一枚が1918年に描かれたもの。ぱっとみるとデ・キリコや未来派のカッラの作風と似ており、これが後年モチーフの瓶や壺を淡い色彩で横に並べていく静かでやさしい面に変わっていく。

落ち着いてみられるという点ではモランディとモンドリアン(1872~1944)の‘コンポジション’は共通するものがあるが、モンドリアンのすきっとした水平線と垂直線の組み合わせと明快な色彩でつくられる画面はじっと見ていると微妙に動いている感じ。これが立体化する四角形のおもしろさ。

デュシャン(1887~1968)はびっくりするほど数が揃っている。全部で11点、1点は普通の絵‘ブランヴィルの風景’だが、ほかは画集に載っている‘自転車の車輪’、‘旅行者用折り畳み品’、‘パリの空気’などの‘レディメイド’。これほどデュシャンを展示しているのは本家のフィラデルフィア美以外ではここだけ。

イタリアの現代彫刻家、ヴィヤニ(1906~1989)の‘ヌード’は抽象彫刻なのに裸婦をイメージさせるフォルムがすばらしい。感心しながらみていた。

美術館に乾杯! 国立近代美 その五

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Img_0003     ヴィルトの‘指揮者トスカニーニ’(1924年)

Img_0001     マルティー二の‘アテナ’(1934年)

Img_0002     ジャコメッティの‘ヴェネツィアの女’(1956年)

Img     パスカリの‘恐竜の復元’(1966年)

イタリアの現代彫刻というと未来派のボッチョーニ、マンズー、マリオ・マリー二くらいしか頭に浮かばなかったが、国立近代美に2度足を運んだお陰でその列伝に数人が加わった。

その一人がミラノ出身のヴィルト(1868~1931)。2点の大理石の肖像彫刻‘指揮者トスカニーニ’と‘ムッソリーニ’は強いインパクトがあり今も強烈に胸に刻まれている。写真や映像でみたモデルのイメージがこの彫刻と重なるだけでなくを内面にまで鋭く切り込んだ表現は立体アートに豊かな力を与えている。

5点くらいあったマルティー二(1889~1947)は‘アテナ’に思わず足がとまった。ヴァチカン博でみた女神ヴィーナスの優美な造形とはちがい、アテナには男性の神のような力強さがみなぎっている。こういうモチーフをみると古代ローマのころから彫刻という芸術が脈々と受け継がれていることがわかる。

ジャコメッティ(1901~1966)の‘ヴェネツィアの女’は絵画ならモデイリアーニの描くうりざね顔の女性をみるような感覚。この胴と腕が一体化した細長い彫像によってジャコメッティのイメージができあがっている。創作活動は個性のある様式でみる者の心に入りこめば最後には受け入れられる。

若くして亡くなったイタリアの現代アーチスト、ピーノ・パスカリの‘恐竜の復元’はおもしろい発想。地球史に興味を深めているのでこういう作品は忘れられない。

美術館に乾杯! 国立近代美 その六

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Img     ポロックの‘水路’(1947年)

Img_0001     トゥオンブリーの‘ティタンの没落’(1962年)

Img_0002     フォンタナの‘空間概念’(1949年)

Img_0003     フォートリエの‘サマータイム’(1957年)

ポロック(1912~1956)は1947年に縦長のキャンバスを使って表現した作品を数点仕上げた。例えば‘五尋の深み’(MoMA)、‘大聖堂’(ダラス美)、‘彗星’(ウイルヘルムーハック美)。‘水路’もその一枚。ほかの美術館のものとくらべるとドロッピングの不規則性がやや薄く思い描いたイメージをうまくまとめたという印象をうける。

人生の後半はローマで過ごしたトゥオンブリー(1928~2011)はギリシャ神話や古代ローマをモチーフにして描くようになる。ここに飾ってあるのはギリシャ神話のはじめの物語‘ティタンの没落’。ゼウスは天界の支配者になるためにはどうしても親たちの世代のティタン神族をやっつける必要があった。

細い線で描かれたこちゃこちゃっとしたいくつかの塊が戦いのシーンだと想像されるがどこに勝利者となったゼウスがいるのかまったく見当がつかない。ところどころに引かれた垂直線はティタンの没落を象徴しているのだろうか。

大きなサプライズだったのはフォンタナ(1899~1968)の代名詞となっているキャンバスの表面の小さな穴や裂け目がどどっと現れたこと。全部で10点くらいあった。フォンタナは日本では大原美などでほんの数点しかお目にかかったことがないので、これは大収穫。そのなかで釘づけになったのが穴の配置を複雑にして渦巻きを連続的に生み出している‘空間概念’。

絵の具を厚く塗り具象の痕跡を少し残した抽象絵画で一世を風靡したフォートリエ(1898~1964)はデュビュッフェやヴォルスらとともにアンフォルメル様式を生み出した。‘サマータイム’の荒々しくて生気のある物的感覚になぜか惹きつけられる。

北斎の‘向日葵図’!

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Img_0001        ‘向日葵図’(1847年 シンシナティ美)

Img_0002     ‘曙艸 吉野山花見’(部分 1797年 島根県美)

Img     ‘円窓の美人図’(1804年 シンシナティ美)

Img_0003     ‘鯉亀図’(1813年 埼玉県立歴史と民俗の博物館)

21日(木)六本木の森アーツセンターへでかけ‘新・北斎展’(1/17~3/24)をみてきた。‘日曜美術館’が2回にわたって北斎(1760~1849)をとりあげたことが浮世絵ファンの関心をさらに高めたのか、チケット売り場へ着くと案内係から‘現在、60分待ちです’と告げられた。

お目当ての‘向日葵図’をみてさっと帰る予定だったが、入場するのに1時間も待つことは想定外。北斎人気がこれほど盛り上がっていたとは!そのため、次のサントリー美へ行く時間が大幅に狂った。

大規模な北斎展が続く。昨年10月大阪のあべのハルカス美で大英博との共同プロジェクト‘北斎ー富士を超えてー’があり、その3ヶ月後今度は東京で永田コレクションを軸にして北斎のバラエティにとんだ作品がずらっと並ぶ。‘浮世絵界の大スター、北斎、カッコいいねぇ’と声をかけたくなる。

展覧会のチラシをみて鑑賞欲を強く刺激された‘向日葵図’はこれまで情報がなかった絵。シンシナティ美所蔵の浮世絵は2005年東博であった北斎展に‘円窓の美人図’が出品されたが、この美人は今回ひまわりも一緒にもってきてくれた。

こういうふうに向日葵を単独で描いたものですぐ思い浮かべるのは畠山記念館にある鈴井其一(1796~1858)の向日葵図。ひょっとして其一は北斎の向日葵の絵を知っていて、じゃあ、自分もと筆をとった?
北斎のとてもやさいい感じのする向日葵に会えたのは生涯の思い出。本当にすばらしい!

永田コレクションの‘曙艸 吉野山花見’の展示期間(2/21~3/4)と無意識にタイミングがあっていたことに気づいた。そして、2005年にみた‘鯉亀図’(2/21~3/24)とも運よく再会した。混雑する会場をすりぬけながら進んでいったが、はじめてみるものが数多くあった。北斎の展覧会へ何度足を運んでも大きな満足がえられるのは作品の幅が広いから。

浮世絵特有の小さな絵がたくさんあるので鑑賞に相当なエネルギーを使う。だから、途中で休憩を入れてみるほうがよいかもしれない。

‘河鍋暁斎 その手に描けぬものなし’!

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Img  ‘地獄太夫と一休’(1871年以降 ゴールドマン・コレクション)

Img_0003     ‘司馬温公甕割図’(1881~89年 大英博)

Img_0002     ‘蛙の蛇退治’(1879年 大英博)

Img_0001 ‘鷹に追われる風神図’(1886年 ゴールドマン・コレクション)

浮世絵師で展覧会が開催される回数が群を抜いて多いのは北斎と国芳、その国芳に小さい頃弟子入りした河鍋暁斎(1831~1889年)にもスポットがあたっており、回顧展によくでくわす。サントリー美では今‘河鍋暁斎 その手に描けぬものなし’(2/6~3/31)が行われている。

2年前、Bunkamuraにイスラエルのゴールドマン・コレクションンがやって来て前のめりでみた。だから、サントリーはパスでもいいかなと思ったりするが、北斎と一緒でどうしても美術館に足が向かう。すでにみた作品が並ぶことはある程度想定できるので期待は暁斎のプラスαの出現。

暁斎の描く美人図には立ち姿が多いが、モデルとの組み合わせがギョッとする‘地獄太夫と一休’に最も魅せられている。地獄太夫は室町時代の遊女で一休に師事した。一休はさばけた人物で遊郭に遊びに行く。芸妓たちと楽しむ座を太夫がはずしこそっと様子をみると彼女たちは皆骸骨だった。ありゃら!


三味線を弾く骸骨の頭に乗りハイになって踊る一休の調子のよさ、この姿からは頓智の一休さんのイメージとは結びつかない。色鮮やかな打掛けを着てS字に体をまげる太夫とでれっとした一休と不気味な骸骨たちがはやし立てる様子がびっくりするほど前衛的。暁斎恐るべし!

初見の作品で収穫は子どもの描き方がとても上手い‘司馬温公甕割図’、これは甕に落ちた幼子を機転をきかせ胴を石で割り助けた司馬光の逸話。まわりの子は何もできずあたふたして動くまわるばかり。でも司馬光は冷静に対応する。たしかに賢そうな顔をしている。

こういうアイデアをよく思いつくなというのが‘蛙の蛇退治’、‘鳥獣戯画’を手本にしているが描かれている場面はドキッとする。蛙と天敵の蛇の関係を逆転させ、18匹の蛙が仕留めた蛇を2本の柱にくくりつけ綱がわりに使って曲芸をしている。

もう一点、興味深くみたのは‘鷹に追われる風神図’、不思議なのはなぜ風神が鷹に追われるのか?これをみてギリシャ神話にでてくる鷲に化けたゼウスにさらわれるガニュメデスの話を思い出した。

‘奇想の系譜展’!

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Img_0002     伊藤若冲の‘旭日鳳凰図’(1755年 三の丸尚蔵館)

Img_0001     狩野山雪の‘梅花遊禽図襖’(重文 1631年 京都・天球院)

Img_0003     長澤芦雪の‘花鳥図’(18世紀)

Img  鈴木其一の‘百鳥百獣図’(1843年 エドソン・コレクションン)

現在、東京都美で開かれている‘奇想の系譜展’(2/9~4/7)をみてきた。この日はまず上野へ行きそのあと六本木という段取りだったが、森アーツセンターの‘新・北斎展’の大盛況ぶりに較べると奇想展の熱気はだいぶ下回る。

伊藤若冲(1716~1800)を軸にして‘奇想の画家’が集結してるよ、と連呼したって、若冲にしろ長澤芦雪(1754~1799)にしろ贔屓の絵師の回顧展が開催されれば足を運んでいるのだから、それほど新鮮味はない。いまさら奇想派でもないだろういうのが率直な感想。奇想ボケした主催者には北斎展、暁斎展に足を運ぶ日本美術ファンの気持ちがわからないだろう。

何度見ても心を奪われるのが若冲の‘旭日鳳凰図’、‘動植綵絵’の画面のサイズよりひとまわり大きいため大女優のような風格をそなえた鳳凰が目に眩しく映る。おもしろいことに鳳凰は雄と雌のペアで描かれているのに視線がむかうのは尻尾を高くあげ体を大きくみせている雌ばかり。左にいる雄に気づかず隣へ移動しそう。

狩野山雪(1590~1651)の‘梅花遊禽図襖’は天球院でみたことがあるので思い入れが強い。こういう風に枝をやけっぱちに曲げる梅の木が実際にあるのか知らないが、山雪は強風などで折れた枝のイメージがありこの形を創作したのだろうか。京博であった山楽・山雪展に出品された‘龍虎図屏風’や‘四季耕作図屏風’とも再会できたのでいうことなし。ダイナミックにうねる波の描写は山雪と曾我蕭白(1730~1781)の強いつながりを伺わせる。

今回初見の作品で収穫だったのは芦雪の‘花鳥図’とアメリカから里帰りした鈴木其一(1796~1858)‘百鳥百獣図’。‘花鳥図’の上の鳥の描き方は師匠である応挙の‘薔薇文鳥図’を意識しており、下半分の錦鶏とお得意の雀と組み合わせてすばらしい花鳥図を仕上げた。芦雪には六曲一双の‘百鳥図’という傑作があるが、‘花鳥図’はこれと同じくらい魅了される。

東京都美にでかけたのはじつは其一の絵をみるためだった。チラシでみて気になってしょうがなかった。縦長の2枚の画面は鏡あわせになっていて、上の滝を落ちてきた水の流れのまわりに鳥と獣が所狭しと描かれている。注目は左下の白象。其一はどの象の絵をみたのだろうか。ひょっとしてほぼ同時代を生きた国芳の象?

美術館に乾杯! アテネ国立博 その一

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Img_0001     アテネ国立博の正面

Img_0003     ‘黄金のマスク’(紀元前16世紀)

Img_0002_2     ‘漁夫’(紀元前16世紀)     

Img_0004     ‘竪琴奏者’(紀元前2400~2000年)

西洋の絵画や彫刻などの美術品に興味をもちはじめると時代をどんどん遡って世界各地におこった古代文明の扉をたたいてみたくなる。メソポタミア文明はまだ縁がないが、エジプト、ギリシャ文明は運よくこの目で見ることができた。

ギリシャを旅行したのはちょうどアテネオリンピックがあった2004年の秋。ツアーに参加しアテネ、デルフィ、オリンピア、ミケーネといった定番の観光地をまわった。アテネでのお目当てはパルテノン神殿とギリシャ美術がごそっとみれるアテネ国立博。

アテネがどんな街だったかは覚えているが個々の観光スポットの位置はとなるとあやふや、だからアテネ国立博士のある場所はガイドブックで確認しても、パルテノン神殿からどっちの方向だったかぴたっと決まらない。でも立派な建物の外観と館内のすばらしい彫刻の数々は目に焼きついている。

事前につくった必見リストの一番上に載せていたのはシュリーマンがミケーネで発見した‘黄金のマスク’、王のデスマスクだから金を薄くまで打ち出してつくられた。エジプトのツタンカーメン王の黄金のマスクとは違い静かに目をつむった王の威厳にはリアリティがある。

3年前日本にやって来た‘漁夫’にも心を奪われるが、じつはこのサントリー二島で発展された色鮮やかなフレスコ壁画は展示室が封鎖されていてみれなかった。そのリカバリーが日本で実現したのはこの上ない喜び。だが、有名な‘ボクシングをする少年’がまだ残っている。もう一度ギリシャへ行く機会があるだろうか。

エーゲ海のキュクラデス諸島で発掘された‘竪琴奏者’は‘漁夫’よりもっと古い紀元前2400~2000年につくられた大理石像、そのプリミティブな造形は心を静かに揺すぶり、モディリアーニの彫刻が重なってくる。


美術館に乾杯! アテネ国立博 その二

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Img     ‘ディピュロンの墓甕’(紀元前750年)

Img_0002     ‘パンの画家のぺリケ’(紀元前470年)

Img_0001     ‘クロイソスの墓像’(紀元前530年)

Img_0003     ‘台座浮彫 体育場風景’(紀元前510年)

古代の美術品のひとつの特徴がサイズの大きさ。ギリシア陶器のなかにはビックリするほど大きな甕やアンフォラがいくつも並んでいる。思わず足がとまったのが高さ155㎝の大甕‘ディピュロンの墓甕’、これは死者の霊にお酒を注いで供養するためのもので表面全体は端正な幾何学模様で覆われている。

時代が下って紀元前470年頃につくられたぺリケ(下ふくらみの器)のみどころは器に描かれた絵。この頃陶器画家が活躍し、神話や普段の生活の光景が描かれた。黒地に赤褐色で表現されたのはエジプト王や家来と戦うヘラクレス。また、ヘラクレスがケンタウロス族のネッソスをやっつける場面のアンフォラもある。

‘クロイソスの墓像’は紀元前8世紀末からはじまったアルカイック時代を代表するクーロス(青年立像)。この等身大の像は高さ195㎝もあり圧倒的な存在感をみせている。明らかにエジプトのファラオ像の影響を受けているが、均整のとれた肉体美には生気がみなぎっている。これは忘れられない。

古代オリンピックがはじめて開かれたのは紀元前776年。青年たちが肉体の鍛錬の成果を競いあった各種スポーツの様子は陶器や台座の浮彫などに盛んに描かれた。‘台座浮彫 体育場風景’にでてくるのはレスリングをする選手たち。

世の中には筋トレにとりつかれた人が大勢いそうだが、この若者たちの腹の筋肉の割れ具合と遜色ないほど肉体を鍛えている人は一握りの上級者クラスだけだろう。

美術館に乾杯! アテネ国立博 その三

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Img_0003     ‘馬に乗る少年’が飾られた部屋

Img_0004     ‘アルテミシオンのゼウス’(紀元前460年)

Img_0002     ‘馬に乗る少年’(紀元前140年)

Img     ‘アンティキュテラの青年’(紀元前340年)

Img_0001     ‘エレウシスの大浮彫’(紀元前440年)

これまで海外の美術館でみた彫刻のなかで心に強く残っているものがアテネ国立博に2点ある。クラシック期の傑作‘アルテミシオンのゼウス’とヘレニズム期につくられた銅像‘馬に乗る少年’。この二つの彫刻と‘黄金のマスク’をみれたことは生涯の思い出。

ギリシア神話に登場する神々と英雄たちは本を読んでいるときはまだみな同じようなイメージにとどまっているが、人間の姿となって絵画化されあるい彫像として目の前に現れると超越的な神の威厳や英雄たちの強さを実感するようになる。

等身大のブロンズ像‘アルテミシオンのゼウス’(高さ209㎝)は絵画にでてくるゼウスのイメージとはかなり違う。いつも変身の術を使って美女にいい寄るゼウスが彫像になると引き締まった肉体をもつ理想的な男性として表現されている。足を大きく広げ手を水平にのばして立つ堂々としたゼウスにはとてもじゃないが近寄れない。

厳格すぎるくらいかちっとしたクラシック様式にくらべモチーフが日常生活のひとこままで多様化したヘレニズム期の彫刻はリアリズムと動くのある造形が人々の心をとらえた。疾走する馬と少年が一体となった‘馬に乗る少年’はもうワクワクするほどの出来映え。馬の顔は競走馬とまさに同じ筋肉の動きをみせている。ギリシア彫刻の凄さを思い知らされた。

ほかのクラシック期の作品で目を惹いたのはトロイの王子パリスとか英雄ペルセウスに解釈されている‘アンティキュテラの青年’と大地の女神デメテルがエレウシスの王子に穀物栽培を教えるため麦の穂を渡す場面が彫られている‘エレウシスの大浮彫’。

美術館に乾杯! アクロポリス博 その一

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Img_0002     アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿

Img_0003     ‘仔牛を担う人’(紀元前560年)

Img_0001     ‘馬上の青年’(紀元前6世紀)

Img_0004     ‘パンアテナイア祭に列席する神々’(紀元前440年)

Img     ‘水かめを運ぶ若者たち’(紀元前440年)

アテネにあるパルテノン神殿をみることはエジプトのピラミッド同様、わが家における一大イベント。その夢が叶ったのは2004年。それから15年の月日が流れたが、相変わらず大勢の観光客が押し寄せているにちがいない。今も神殿の修復工事は続いているのだろうか。

われわれがでかけたとき、神殿の右後ろの場所にアクロポリスで発掘された出土品や神殿を飾っていた大理石彫刻が収められたアクロポリス博があった。その後博物館はこの遺跡のふもとに移転し、2009年6月に新アクロポリス博としてオープンした。展示スペースは旧館の10倍になったというから、またアテネを訪問する機会があったら立ち寄ってみたい。

ギリシャ旅行から帰ったあと‘彫刻をみるならギリシアへ行け’、と専門家のような顔をして西洋美術が好きな人に熱く語っていた。いろいろな美術館をまわるとこんな形の彫刻もあったのか、と感心するものとも出くわす。アルカイック期の‘仔牛を担ぐ人’はそんな彫刻。これはアクロポリス山上に献上された最古の彫刻のひとつで肩に仔牛を担ぐ男性の大きな目と明るくきびきびした姿が目に焼きつく。

これぞ‘アルカイック・スマイル’という感じなのが‘馬上の青年’、こういう穏やかな笑いの表情は男性のイメージと結びつかないので勝手に胸から下はみないで若い女性を思い浮かべている。

嬉しいことにここではパルテノン神殿のフリーズや破風を飾っていたレリーフが楽しめる。東側フリーズにあった‘パンアテナイア祭に列席する神々’には左からポセイドン、アポロン、アルテミスが描かれている。そして、顔がよく残っている‘水かめを肩にかついで運ぶ若者たち’は北側フリーズに彫られていた。

美術館に乾杯! アクロポリス博 その二

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Img     ‘ぺプロスのコレー’(紀元前460年)

Img_0003     ‘エユテュディコスのコレー’(紀元前490年)

Img_0002     ‘アテナ’(紀元前520年)

Img_0001     ‘哀悼のアテナ’(紀元前460年)

アクロポリス博で最も印象深かったのは‘コレー’と呼ばれるアルカイック時代の着衣の少女像。10くらい並んでいる。青年像を表す‘クーロス’が裸体像なのに対し、コレ―の見どころは身につけている衣服や髪に彩色された色が残っているところ。着色された彫刻は滅多にみれない。

ひと目見てKOされたのが‘ぺプロスのコレー’、ぺプロスは厚手の布地でできた古風なマントのこと。目が大きくアルカイックスマイルをみせるこの少女はモデル派遣会社の前でたむろしているとすぐ会えそうな明るい子。

この売れっ子モデルの横にいるのは成熟した女性の雰囲気が漂う‘エウテュディスコのコレ―’、少女の表情は生感覚のままという感じの肖像がこの頃存在していたというのは驚き。

思わず足がとまった‘アテナ’はアクロポリスの神殿破風に装飾されていたもので蛇の飾りのついた神楯アエギスを構える女神アテナが巨人ギガンテスと戦っている場面。体を前に倒した動きのある表現が心をとらえて離さない。

勇ましい女神がいる一方、クラシック期につくられた‘哀悼のアテナ’では戦争で亡くなった戦士を悲しみ槍にもたれながらうつむくアテナの姿がある。こういう彫刻をみると神の超越的な力でなく生身の人間のように心の揺れもそのままみせる女神に共感をおぼえる。

美術館に乾杯! デルフォイ博

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Img_0001     ‘デルフォイの御者’(紀元前475年)

Img_0005      ‘デルフォイの御者’(拡大)

Img_0006     ‘ナクソス人のスフィンクス’(紀元前560年)

Img_0003     ‘アポロン’(紀元前550年)

Img_0004     ‘アンティノウスの像’(130~38年)

ギリシア旅行のなかで特別な思い入れがあったのがパルナソス山の中腹にあるデルフォイ遺跡。ガイドブックに載っているアポロンの神殿、へその石、劇場などをみてまわりながら、判断に悩む古代のギリシア人が最後に頼ったデルフォイの神託に今お願いするとしたら何があるか、考えたりした。

ツアーはこの後デルフォイ博に入館する。ここにサプライズのブロンズ像があった。クラシック期の傑作‘デルフォイの御者’、目が点になるのが御者の目のまつげ、こんな細かいところまで手をいれてる彫像はみたことがない。色のついた石の目とまつげがこれほど見事だとほかの彫像がみれなくなる。

高さ2.3mもある‘ナクソス人のスフィンクス’も目に焼きついている。スフィンクスというとエジプトのカイロのあるものがすぐ浮かぶが、こんな小ぶりのスフィンクスも悪くない。モローの絵にスフィンクスがでてくるが、参考にしたのはギリシアの彫刻だろう。

象牙と金で制作されたアポロン像の頭部はパッとみるとエジプトの神官のイメージ。目、鼻、口はいずれも大きく存在感はすごくある。そのため、ロマンチックなイメージをもつアポロンとのちがいが気になる。横には同じつくりの女神アルテミスがいた。

最後の11室にある‘アンティノウスの像’はローマ時代につくれたもの。ご承知のようにアンティノウスは14代皇帝ハドリアヌス(在位117~138年)の愛した青年。アウグストゥスとハドリアヌスを除いてもっとも多く残っている大理石像、ローマのカピトリーノ美にもみたが全部で100体くらいあるらしい。

美術館に乾杯! オリンピア博

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Imgオリンピア遺跡‘ゼウス神殿’(右)の後方が‘スタジアム’、‘ヘラ神殿’(左)

Img_0004     ‘ゼウス神殿の西側破風’(紀元前460年)

Img_0002     ‘ケンタウロスと戦うテーセウス’(紀元前460年)      

Img_0001     ‘黄金のりんご’(紀元前460年)

Img_0003     プラクシテレスの‘ヘルメス像’(紀元前4世紀末)

ペロポネソス半島の西にあるオリンピア遺跡で美しい女優が聖火リレーの火を太陽の光からとりだす恒例の儀式がTVのニュースで映し出されるたびに、ここを訪れて本当によかったなと思う。

紀元前776年からはじまった古代オリンピックはゼウス神殿の後方にあるスタジアムで行われた。トラック一周は192m、今もゴールラインが残っている。そして、観客席は3万人収容できた。

オリンピア博のみどころのひとつがゼウス神殿の東側と西側の破風を装飾していた彫刻群。西側は‘ラピタイ人とケンタウロス’が描かれている。中央にいるのはアポロンでその右が‘ケンタウロスと戦うテーセウス’、人間の上半身と馬の足をもつケンタウロスは荒くれで好色。

婚礼の酒宴が進むとすぐケンタウロスは本性をだしラピタイ人の花嫁にちょっかいをだす。こうなるともう収拾がつかない。ラピタイの男たちとケンタウロスは大乱闘。英雄テーセウスもケンタウロスを退治するのに一役買う。

ゼウス神殿の前室と後室の上部にほどこされたレリーフに描かれたのは‘ヘラクレスの12の難業’、そのひとつが‘黄金のりんご’。真ん中が球を背負うヘラクレスで右がヘラクレスに代わって黄金のりんごをとってきたアトラス。

紀元前4世紀中頃の大彫刻家プラクシテレスの作品はヘレニズム時代に模刻されたものが多いが、この幼児のディオニュソスを抱くヘルメス像は唯一残る原作とみなされている。彫刻好きならこれをみるだけでもここへやって来る価値があるかもしれない。

美術館に乾杯! ペルガモン博 その一

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Img     古代ギリシア地図

Img_0004     ベルリン ペルガモン博

Img_0005     ‘ペルガモンの大祭壇’(紀元前160年頃)

Img_0003     ‘ゼウス群像’

Img_0002     ‘アテナ群像’

Img_0001     ‘戦うヘカテ’

Img_0007     ‘アルテミスと敵’

ベルリンを観光したのは2003年。自由行動の時間がなかったので数多くある美術館のなかで出かけたのはペルガモン博のみ。館内に入って度肝を抜かれたのはトルコ・ペルガモンのアクロポリスに建っていた大祭壇がなんと再現されていたこと。

この大祭壇が完成したのは紀元前2世紀の中頃。この年の2年前トルコを周遊したときペルガモンにも寄り、トロヤヌス神殿、円形劇場などをみたが、大祭壇があった場所には5段の基壇が残っていた。そのイメージを膨らませることがベルリンで実現した。実際に旧ペルガモン博に大祭壇が復元されたのは1901年のこと。

大祭壇(35m四方)の東西南北の各フリーズに描かれているのはギリシア神話にもとづきゼウスと神々が巨人族と戦い勝利するまでの様子。ヘレニズム期の彫刻はローマのヴァチカン博にある‘ラオコーン’のように、男性は筋肉隆々で勝者、敗者が入り混じる戦いの構成ではひねりの入った人体表現もあり、戦いの激しさや悲哀が顔の表情にリアルに出ているのが特徴。

とくに見ごたえのあるのが東のフリーズ、‘ゼウス群像’では左から2番目が力をみなぎらせて立っているゼウス。‘アテナ群像’は巨人アルキオネウスと戦うアテナの強さが目立つ。髪をつかまれた巨人の胸に蛇が噛みついているが、‘ラオコーン’がダブった。同じく東フレーズにある‘戦うヘカテ’と‘アルテミスと敵’の動きのある描写にも惹きこまれる。


美術館に乾杯! ペルガモン博 その二

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Img     ‘イシュタール門’(紀元前6世紀初め)

Img_0002     ‘イシュタール門正面の竜と雄牛のレリーフ’

Img_0003     ‘ネブカドネザル二世の南宮殿謁見の間’

Img_0001     ‘バビロンの神々の行列街路’

‘ペルガモンの大祭壇’で遭遇したすばらしいヘレニズム彫刻と同じくらい強く心を打ったのが新バビロニア王国のネブカドネザル二世が建築した‘イシュタール門’。釉薬を使って焼成された青い煉瓦の美しさが目に焼きついている。

これが復元されているのは博物館の正面右の建物。ドイツの考古学隊がバビロンでこの都市防衛のために築かれた‘イシュタール門’を発掘したのは1902年。紀元前539年、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされたあと長い間土と砂に埋もれていたが、帝国の栄光が再び蘇った。

壁面は花模様で縁取られ、雄牛や竜の浮き彫りが門のセンターを境にして鏡合わせのように向き合い、整然と描かれている。動物を主役にした装飾はこの前の‘バビロンの神々の行列街路’でさらにパワーアップする。壁の上を悠然と歩くライオンの姿はバビロンの守護神女神イシュタールのシンボルでもある。

イスラムの教会のなかにいるのかと錯覚するのが幾何学模様と花を連想させる豪華な装飾の割合が多い‘ネブカドネザル二世の南宮殿謁見の間’。これは‘イシュタール’のすぐ横に復元されている。

これまでみたメソポタミア文明の遺跡で圧倒的な存在感をもっているのは大英博でみたアッシリア帝国の守護神‘人面有翼守護像(ラマックス)’(紀元前888年~859年頃)。そして、ペルガモンで模様として大変魅力のある竜やライオンと出くわした。両方みれたのは生涯の喜び。

美術館に乾杯! トプカプ宮殿

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Img_0002  ボスポラス海峡を挟んで西がヨーロッパ側、東がアジア側

Img_0003     トプカプ宮殿の全景

Img     ‘トプカプの短剣’(1741年)

Img_0001     ‘スプーン職人のダイアモンド’

Img_0005     ‘イズミックタイルが鮮やかな割礼の間’(16世紀)

Img_0004     ‘麒麟のモチーフのある大皿’(明代 15世紀)

海外の観光地にでかけて事前の魅了度が上に大幅に外れることがある。2001年、イスタンブールやカッパドキアなどを訪れたトルコはそのいい例。旅行から帰ってしばらくは友人にトルコにはバラエティに富んだすばらしい観光資源があることを熱く語っていた。

旅のスタートとなったイスタンブールではオスマン帝国の繁栄を今に伝える‘トプカプ宮殿’(1465年完成)の宝物に200%心を奪われた。宮殿正面の敬礼門から入って右手の宝物殿に飾られているお宝のなかでとりわけスゴイのが‘トプカプの短剣’

スルタンたちは緑のエメラルドをとりわけ好み、3cmほどの大きなエメラルドが柄のところに3つも埋め込まれている。これほどサプライズのある宝物には滅多にお目にかかれない。目玉はもうひとつある。‘スプーン職人のダイアモンド’、世界で2番目に大きいダイアモンド(86カラット)のまわりを49個の小さなダイヤモンドがとりかこむ。漁師の拾った原石をスプーン職人が3本のスプーンと交換したという伝説がその名の由来。

宝物殿のあと宮殿のなかをどういう風にまわったか記憶が薄れているが、鮮やかな青は目にしみるイズミック・タイルを使って植物模様を装飾した居室の壁はよくおぼえている。

エメラルドの短剣と大きなダイアモンドでもう感動の袋はパンパンに膨れたが、やきもの好きにとって嬉しい出会いが待っていた。それはもと厨房だったところが展示室になっている中国陶磁。その数1万点にのぼり、本家の北京、ドレスデンにつぐコレクションを誇っている。

その一部が2007年東京都美にやって来たが、明代の青花‘麒麟のモチーフのある大皿’のように見事に青が発色した皿や壺がずらずらっと並んでいる。夢のような気分でながめていた。

美術館に乾杯! イスタンブール考古学博

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Img_0002     トプカプ宮殿から徒歩5分で着く‘イスタンブール考古学博’

Img  ‘アレキサンダーの石棺:戦争の場面の浮き彫り’(紀元前4世紀後期)

Img_0003     ‘左端に描かれたアレキサンダー’(拡大)

Img_0001     ‘アレキサンダーの石棺:狩りの場面の浮き彫り’

Img_0005     ‘ライオンが襲いかかる馬の後ろがアレキサンダー’(拡大)

トプカプ宮殿を見た後自由行動の時間があったのですぐ近くの‘イスタンブール考古学博’へ駆け込んだ。事前の情報でここの‘アレキサンダーの石棺’が必見とあったので期待が高い。この石棺は1887年、当時オスマン帝国の領土だったレバノンのシドンの王家の墓地から発見された。つくられたのは紀元前4世紀後半。

ほとんど完全な形で残っていたというのが驚き。石棺はギリシア神殿を模し、棺の長い面にはアレキサンダー大王率いるギリシアとペルシアの戦闘の場面とライオンと鹿狩りの場面が描かれている。モチーフの動的描写を浮き彫りでこれほどリアルの表現できるのは並みの腕前ではでてこない。200%圧倒された。

‘戦争の場面’では左端の馬上の若者がアレキサンダー、馬は前足をあげアレキサンダーが右手で槍を構える姿がじつの絵になる。このシーンはイッソスの戦い(紀元前333年)を描いたものとされている。

‘狩りの場面’でアレキサンダーが描かれているのは拡大画像の左の人物。ここではギリシア人とペルシア人が一緒になってライオンと鹿を仕留めようとしている。そして、馬の下にはグレイハウンドが3匹おり、その1匹はライオンの足にかみつている。このころから狩りに犬を連れていっていた。美術によっていろんなことを学ぶ。

この場面で視線が長くとどまるのは馬の胸に噛みつくライオン。アフリカ動物紀行で登場するライオンは小さい動物を襲うことは多いので、こういう馬に襲いかかるシーンはギョッとする。

美術館に乾杯! アヤ・ソフィア

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Img     ‘アヤ・ソフィア’(537年)

Img_0002     メインドームの内部

Img_0001     ‘ディーシスのモザイク’(12世紀)

Img_0003     ‘コムネノスのモザイク’(12世紀)

Img_0004     ‘ブルー・モスク’(1616年)

ヨーロッパをまわるといろんなタイプの教会に遭遇する。別格扱いのローマの‘サン・ピエトロ大聖堂’、高さで圧倒される‘ケルン大聖堂’(170m)、また‘トレド大聖堂’もスゴイなという印象を受ける。まだ見てない教会でも感動しそうなのがたくさんある。

こうした見慣れた形とは違うビザンチン様式の傑作がイスタンブールの‘アヤ・ソフィア’。まわりにいくつもの小さいドーム、中央に大きなドームがそびえる。十字の形をした空間にドームがいくつものる構造がビザンチン様式の特徴。いくつもの石を積み重ねてつくられた巨大ドームは高さ56m、直径31m。

そして、もう一つの特徴が荘厳な神の世界を表現する鮮やかなモザイク画。そのなかでとくにいいのが‘ディ―シス(請願図)のモザイク’。中央にキリスト、左に聖母マリア、右に洗礼者ヨハネが描かれている。1453年、コンスタンティノポリスを征服したスルタン・メフメット2世は荒れ果てた聖堂を修復しモスクとして使用することにするが、賢明にもモザイク画を壊さず残した。

コムネノス一族のモザイクは真ん中の聖母子像がじつにいい。モザイクでは人物に強いインパクトをもたせるため目は丸くくっきり描かれている。だから、印象が深く刻まれる。

‘アヤ・ソフィア’の近くにあるイスラム教のモスクとして1616年に建てられた‘ブルー・モスク’はバスの中からみただけ。ツアーではここへは行かない。またこの街を訪れることがあればいの一番に出かけるつもり。

美術館に乾杯! カイロ考古学博 その一

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Img_0004  ‘ツタンカーメンの黄金のマスク’(第18王朝:紀元前1580~1314年)

Img_0003    ‘ツタンカーメン王と王妃’紀元前1330年頃)

Img     ‘青い河馬像’(第12王朝:1991年~1785年)

Img_0002     ‘トエリス女神像’(第26王朝:紀元前666年~524年)

昨年12月、NHK総合でも4K・8Kの番組‘ツタンカーメンの秘宝’が放送された。そこに気になっていた現在建設中の‘大エジプト博’がでてきた。日本のOADがかなり入っている。場所はピラミッドのあるギザ地区。カイロ考古学博のコレクションをここへ移転して名前も‘大エジプト博’に変えるようだ。その時期は当初は2018年だったが、遅れて2020年に延びている。

カイロ考古学博のシンボルは世界的に有名な‘ツタンカーメンの黄金のマスク’、若くして亡くなった未知の王ツタンカーメン(在位紀元前1347年~1338年)はこの黄金のマスクのおかげでエジプト考古学のスーパースターになった。

件の番組ではマスクに使われている金の材質や眉毛や目のまわりをおおう濃い青のラピスラズリについて学者の詳細な分析を紹介していた。現代のハイテク、ナノテクノロジーと同じくらいの技術によって生み出されたいう。これには仰天!そして、玉座の背もたれに描かれた‘ツタンカーメン王と王妃’もついつい長くみてしまう。

愛嬌のある‘青い河馬像’はファイアンスと呼ばれる焼物でできたもの。貴族たちの副葬品として棺のなかに置かれた。ゆるキャラの河馬としてデビューさせたらすぐ全国から名前がエジプト大使館にどんどん飛び込んできそう。

‘トエリス女神像’はどしっとした存在感のある姿が忘れられない。一般庶民の家で祀られて妊娠と出産の神として崇められた。硬い石から削りだされているが、高い技術によってぽちゃとした柔らかい質感を出している。

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