興味のあることならなんでもすっと心の中に入ってくるというわけでもない。絵画は音楽とちがって感動の山がすぐやってこない、だから、目の前の絵が語りかけてくることがなんとなくわかったと思えるようになるには時間がかかる。
福田平八郎(1892~1974)の‘雨’を東近美ではじめてみたときはすぐ虜になったという感じではなかった。日本画をみているというより抽象画の感覚、それが何度もみているうちにだんだん心に響くようになった。雨粒が屋根瓦に落ちその跡がつきしばらくするとそれが消えていくところはたしかにこんな感じ。
平八郎が雨をフォーカスした屋根瓦を使って即物的に感じさせたのに対し、宇田荻邨(1896~1980)の‘祇園の雨’は祇園を舞台にした映画にでてくる雨のシーンをイメージする。しとしと降る雨のなかを一人の女性が白川にそってなにか気になることがあるかのような面持ちで歩いている。こういう絵は黙ってみているに限る。
小野竹喬(1889~1979)は岡山県の笠岡市の出身、広島にいたときクルマで2回ほど笠岡市竹喬美を訪問した。そして、カラリスト竹喬に開眼した。好きな絵はたくさんあるが‘夕空’にも魅了され続けている。どこにでもある秋の終わりのころの美しい夕焼けの光景、軽くてやさしい茜色の空と雲、そしてシルエットになった柿の木。本当にいい絵。
火山が噴火するところを実際にみたことがない。そのため、イタリアにある活火山を一度みてみたいと思うことがある。梅原龍三郎(1888~1985)は若い頃パリに留学していたころナポリでみたベスビオ山に惹かれたようだ。火山に魅せられた梅原は桜島や浅間山を何点も描いている。‘墳煙’は避暑地の軽井沢からみた浅間山、子どもが描いたような力強い造形、日本画の岩絵の具も使った装飾的な色彩が強く印象に残る。