セヴェリーノの‘舞踏会のダイナミックな象形文字’(1912年)
何年か前ローマの国立近代美術館を訪問したとき大いに魅了されのが未来派の作品。幸いなことに2度も縁があったので、セヴェリーノ(1883~1966)やボッチョーニ(1882~1916)、バッラ(1871~1958)の作品にだいぶ目が慣れた。
といっても、未来派が展示されている美術館は限られているから体験した作品は印象派との比較でいうと月とスッポンくらいの差がある。イタリアでほかにみる機会があったのはミラノのブレラ美とヴェネツィアにあるグッゲンハイム美、イタリア以外の美術館で未来派とむすびつくところはどこ?
パリのポンピドーやロンドンのテート・モダンはボッチョーニがあった?という感じ。これに対しMoMAは未来派をしっかりコレクションしている。今回お目当ての作品は5点、バッラの‘アマツバメ’とボッチョーニの‘蜂起する都市’はダメだったが、3点はヒットした。まあ1点か2点みれれば御の字かなと思っていたから想定外の成果。
セヴェリーノの‘舞踏会のダイナミックな象形文字’はワクワクするような絵。右下に書かれた文字‘VALSE’はワルツ、これはピカソの総合的キュビスムの手法。壊れたガラスの破片を連想させるフォルムを複雑に重ねて密度の濃い空間をつくり、そこに踊り子や人物の顔を断片的描き込んだり全身像を小さく思いつくままに配置している。
ボッチョーニの作品は三部作‘心の状態’の一枚、‘別れ’、‘去る者’、‘あとに残る者’が並んで展示してあった。この‘去る者’に描かれた彫刻的な造形をもつ顔が目に焼きつく。幾筋もの斜めの線により心がめざすところへどんどんへ向かってる感じ。こういう時間を表現している作品は想像力をいろいろ掻き立ててくれるので絵に力がある。
しばらくこの顔をみているとある絵が思い出された。それは香月康男の‘シベリアシリーズ’に描かれた人物の顔、ひょっとすると香月はボッチョーニの絵をみたのかもしれない。
ミロ(1893~1983)の‘鳥に石を投げる人物’の前では思わず足がとまった。フィラデルフィア美にあった‘月に吠える犬’同様、こんなへんてこでおもしろい絵にでくわすと抽象度の強い現代アートとはいえいっぺんにリラックスモードになる。たしかに子どもが鳥に石を投げて遊んでいる場面が目に浮かぶ。
デ・キリコ(1888~1978)の‘モンパルナス駅’は1993年日本で開催されたMoMA展に出品された。そのときの疑問がまだとけない。どうしてこの孤独感の漂う静かな空間に大きなバナナが登場するのか?デ・キリコにとってバナナは何を意味するのだろうか?不安な気持ちにつつまれる今の状況から解放されてバナナに象徴されるまったりした南国の世界に身を置きたいとふと思ったのだろうか?