‘ゼルティヒ渓谷の風景’(1924年 メルツバッハ―コレクション)
キルヒナーが神経疾患の治療のためスイスのダヴォスに移って来たのは
1917年で、それから1938年ピストル自殺をはかるまで20年間スイ
スの自然のなかで生き山の風景やそこに暮らす人々を描き続けた。最初の
ころは‘老いた農夫’のように神経質な筆触と鋭角的な形態がみられ心の傷は
なかなか癒されなかったが、山岳生活にとけこむにつれだトゲトゲした形は
残るものの装飾的な描写もでてきてパノラマチックな風景画が生まれた。
そして、人物描写ががらっと変わり丸みがありと穏やかな表情をした人たち
が登場してくる。
2014年に開催されたチューリヒ美展(国立新美)でとても魅了される
‘小川の流れる森の風景’に出会った。惹かれるのは垂直に立つ木々がリズム
よく並んでいること。ぱっとみると平板な画面だが、じっとみると薄青や
ピンクに染まった木がぐるっと円弧を描いているようにみえ奥行き感がある
のに気づく。前の緑の草花も目に優しい。キルヒナー特有のギザギザ的なと
ころがなく逆に装飾的な模様になっている。
‘ヴィーゼル近くの橋’と‘ゼルティヒ渓谷の風景’はスケールの大きなゆった
りした風景画。とくに視線が集まるのが橋の描き方。空間を橋の左右で分割
し、橋の大きさを強調するためカーブさせアーチは遠くにいくにつれて小さ
くなっている。この橋の形が丸いイメージなので山肌の木々のとんがりがあ
まり気にならない。橋の下を勢いよく流れる川の清々さも全体の印象を柔ら
かくしている。
‘日の出を前に’でも‘コーヒーテーブル’でもキルヒナーの人物描写は一変した。
顔をマティスのように普通では考えられない緑やピンクや橙色で彩るのは前
と同じだが大人も少女もみな丸く描かれている。あの横からぎゅっと圧縮し
たような細長い顔はどこへいったのか。こいう人々だと穏やかな気分で一緒
に雄大な自然をみたり美味しいコーヒーが飲める。