‘甲斐夢山裏不二図(左)駿河不二ノ沼図(右)’(1848~54年)
‘日光山裏見ノ滝(左)霧降ノ滝(中)華厳ノ滝(右)’(1849~51年)
広重の肉筆風景画で魅了され続けているのが‘天童広重’。これは出羽国天童
(現在の山形県天童市)織田藩から依頼された作品で1849年から51年
にかけて200幅くらい描かれたと推定されている。藩は財政難のため富農
たちから高額の献金をうけていたが、その報奨に広重の肉筆画を下賜した。
広重は狂歌が縁で天童藩の藩医や藩士たちを交流があり、この大量発注に応
じたというわけ。
おもしろい発想なのが駿河側と甲州側からみた富士山を右と左で夫々半分づ
つ描きそれをひと続きの山としてみせているもの。だまし絵みたいだが、
正面と裏側からの風景は画面の中で違和感なく結合されている。このアイデ
アには北斎も国芳も参ったにちがいない。広重やるじゃない!
‘東都洲崎朝景・高輪夜景図’も傑作。これも一枚の絵としてすっと画面のなか
に入っていける。右の高輪は海面で反射する光を明るく描き夜景になる一歩
手前にしているのがこの絵のミソ。これにより左の朝景で表現された日の出
の美しい光景との滑らかな融和が生まれた。
1853年(嘉永6)に描かれた‘武相名所手鑑 六郷渡舟’と‘浦賀総図’は
天童広重でない肉筆画。横に空間がぐんと広がる感覚が風景画の魅力をいっ
そう引きだしている。My広重図録には大きな図版が載っているので、とき
どき絵の隅から隅までじっくりみて六郷や浦賀の海景を膨らましている。
‘日光山裏見ノ滝、霧降ノ滝、華厳ノ滝’は感慨深い作品(天童広重)。
この絵をみるまで日光の滝は華厳ノ滝だけだと思っていた。ほかに二つある
ことを教えてもらった太田記念美に感謝!