歴史や美術の教科書で浮世絵に出会ったころ、まず覚えたのは菱川師宣の
‘見返り美人’、葛飾北斎の‘赤富士’、東洲斎写楽の役者絵、喜多川歌麿
(1753~1806)の美人大首絵。今では美人画というとほかに鈴木
春信、鳥居清長、勝川春章の肉筆などがスラスラとでてくるが、浮世絵
鑑賞の入口にいたころは師宣と歌麿の二人がすべてだった。
とても長い視覚体験が積み重なっている歌麿の美人画だが、画面いっぱい
に上半身をクローズアップで描かれた女性たちはみな同じ顔をしていると
いうイメージは変わらないまま。現在、歌麿のMy図録の数は北斎、国芳
同様に多くあり、5冊もある。多くの女性がここに載っている。だから、
切れ長の目や鼻の形をよくみると確かに微妙に違うことはわかる。だが、
歌麿の場合、それを隣の方にいったところで納得はしてもらえない。
専門家気取りで大首絵美人画を理屈っぽく語っても話が弾まないのでさら
っといっておしまい。
ご存知‘当時三美人’の下の二人は水茶屋(今の喫茶店)の看板娘、‘難波屋
おきた’(右)と‘高島おひさ’(左)、上の女性は吉原芸者の‘富本豊ひな’。
三人は寛政期(1789~1800)の江戸で評判の美人だった。寛政五
年(1793)当時、おきた17歳、おひさ16歳。このぴちぴち娘を
江戸っ子は歌麿の美人画によって知るところとなり、ひと目見ようと水茶
屋押しかけたという。
人気度ではどうやらおきたの方がおひさを上回っていたようで、歌麿も
おきたの方が好みだったとみえておひさより多く描いている。ともに評判
の美人だったが、おきたは気立てがよく愛嬌があり、茶代の少ない客でも
丁重にもてなしたという。土埃が立つほど客が殺到したという記録も残っ
ている。器量が良くてお客対応満点とくれば‘スーパー看板娘’として誰もが
注目する。タイムスリップして浅草の難波屋を覗いてみたい。