ゴッホ同様ゴーギャン(1848~1903)についても美術本に載ってい
る作品は全部見ようと追っかけ気分は維持したままでいるが、所蔵する美術
館が普通の団体ツアーだと行けないところが多いので見たい絵画がまだ10
点くらい残っている。昨年わが家は北欧に出かけデンマークのコペンハー
ゲンにあるニュー・カールスベア美で待望の‘花をもつ女’と対面することが
できた。だから、コンプリートにはまだまだ時間はかかるがまた一歩前進し
たという充実感がある。
ゴーギャンにのめりこむきっかけになったのはやはりオルセーで名画の数々
と出会ったこと。それまで画集をみてゴーギャンのイメージがつくられてい
たのが‘タヒチの女たち’。この絵からゴーギャン物語がはじまった。画面い
っぱいに描かれた二人の女の存在感がとにかくすごい。正面向きと横向き、
こういう構成を発想するのがゴーギャンが天才たる所以。これだけ接近でき
ればタヒチの世界がビンビンに感じられる。
‘悦び(アレアレア)’は人物や犬の描写は平板的なのに配置の仕方と装飾的
な色彩により空間の奥行き感をつくっているため、視線を左右前後に動かし
て楽しむことができる。そして、白の衣装を着た女の仏像を連想させる座り
方が親近感を抱かせる。後ろではマオリの偶像の前で踊っている人たちがみ
える。
ゴーギャンの自画像のなかでは威圧的な目つきがみるものをたじろがせる
‘黄色いキリストのある自画像’。この自信満々の態度にゴッホは相当プレッ
シャーを感じていたにちがいない。‘フィンセントよ、俺はキリストだって
黄色に描くのさ、そんなキリストはいないと言われたって俺にはこの黄色が
キリストの受難をもっともよく表していると思えるからだ。絵は見たまま
を描くのではなく想像して描くものだ’。ゴーギャンは湧き上がる想像に刺激
されて描く画家だった。
‘白い馬’にはドイツのマルクが描く生き生きした馬と似た雰囲気がある。
3頭夫々が違う描き方で手前で首を下に曲げる白い馬からはじまり、その後
ろの赤い馬は体がすこし傾き疾走中。そして右奥の横向きの馬はゆっくり
進んでいる。弧を描くように並べる表現がとても上手い。