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Clik here to view. ヤン・ブリューゲルとルーベンスの‘嗅覚’(1618年 マドリード プラド美)
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Clik here to view. ‘聴覚’
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Clik here to view. ‘視覚’
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Clik here to view. ティツィアーニの‘ヴィーナスとリュート奏者’(1560年頃 NY メトロポリタン美)
2年前、スペイン旅行をしたときマドリードのプラド美で所蔵するルーベンス(1577~1640)の作品を数多く展示した特別展に遭遇した。そこにも‘貴婦人と一角獣’に描かれた‘五感’を表現したものがあった。
作品はルーベンスがヤン・ブリューゲルと一緒に描いたもので、‘触覚’、‘味覚’、‘嗅覚’、‘聴覚’、‘視覚’をクピドを連れたヴィーナスの仕草や行っていることで表している。‘嗅覚’ではヤンのお得意の花が画面いっぱいに咲き誇っている。‘聴覚’はヴィーナスが楽器を演奏する場面、そして‘視覚’ではクピドが持つ絵をヴィーナスがながめており、部屋は絵画や彫刻で埋め尽くされている。
五感は伝統的に序列がつけられている。‘高次’の感覚と‘低次’の感覚に分けられ、この‘高次’に入る聴覚と視覚だけが愛や美の世界と関係をもつとされ、触覚、味覚、嗅覚は排除された。そして、聴覚と視覚の序列についてはいろいろ論じられたが、視覚が聴覚より上というのが一般的な認識でダ・ヴィンチもこういっている。‘音楽はたんに絵画の姉妹というにすぎない。なぜなら、視覚のあとに位置づけられる聴覚を用いるのだから’
これに対し、新プラトン主義のフィチーノ(1433~1499)は中道の立場をとり視覚と聴覚は同じとし、二つを心と同格にまで引き上げる。‘美には三種類ある。魂の美、肉体の美、音の美、である。魂の美は心が感知し、肉体の美は視覚が享受し、音の美は聴覚を通じて感じられる。愛は常に心、目、耳に満足する’
美術史家のパノフスキー(1892~1968)はティツィアーノ(1485~1576)の描いた‘ヴィーナスとリュート奏者’についてこの聴覚、視覚の関係を切り口にして興味深い読み解きを行っている(‘ティツィアーノの諸問題’2005年 言叢社)。ティツィアーノはヴィーナスと音楽を結びつけたテーマではもうひとつオルガン奏者のヴァージョンを3点描いており、その2点がプラドにある。
ふたつの絵はオルガン奏者が先に描かれそのあとにリュート奏者が描かれた。‘オルガン奏者とヴィーナス’では最初の絵とつぎの2点ではオルガン奏者の描き方により、視覚の聴覚に対する完全優位からいくらか優位に変わったと、パノフスキーはいう。
ベルリン美にある最初のヴァージョンは奏者は楽器に触れてなく、横たわっているヴィーナスをうっとり見つめているが、プラドにあるヴァージョンでは両手は鍵盤に置かれ奏者は体をよじりヴィーナスをみている。この描き方のちがいにより聴覚の美(音楽を聴くこと)に対する視覚的な美(裸体に具現される)の優位が変わったと解釈するのである。
そして、オルガン奏者からリュート奏者に変わり視覚と聴覚は均衡のとれた状態になったと読み解く。それはこう。オルガンを演奏しながら美しいヴィーナスを感嘆して眺めることはできない。でも、リュートならヴィーナスの美しさに魅せられながらセレナードを奏でることができる。パノフスキーは音楽にも造詣の深かったティツィアーノがフィチーノの思想を絵の中に表現したと解釈した。