源頼朝(1147~1199)の顔のイメージは京都の神護寺にある肖像画
によって決定的に刷り込まれている。実際の顔がこのようだったかという話
は横に置いて、歴史上の人物としては一万円札に使われた聖徳太子とともに
もっとも知られているのではなかろうか。この頼朝像はこれまで運よく3回
見ることができたが、記憶に強く残っているのは口と顎の髭と黒の装束に使
われた文様。鼻が少しだんご鼻なのは観るのを重ねるうちにわかったこと。
歴史画を得意とする安田靫彦(1884~1978)と前田青邨(1885~1966)は武者姿の頼朝を描き、明治以降に生まれた日本画の傑作として重文に指定されている。源義経(1159~1189)と一緒に描かれた‘黄瀬川陣’は東近美で定期的に展示されるが、いつも鎧兜の精緻な描写と色彩の美しさを息を呑んでみている。頼朝の顔は神護寺の肖像画に似ている感じ。
一方、大倉集古館のお宝のひとつである‘洞窟の頼朝’は石橋山の戦いに敗れて洞窟に隠れた頼朝主従の緊迫した情景が目に焼き付く。まるで映画のワンカットをみるようで、武者たちが身につけている鎧兜から体を動かすときにでるカシャカシャという音が耳に入ってくる感じ。一度じっくり人物の顔をみたとき、皆鼻が大きいことに気づいた。この頼朝がインプットされているので松岡映丘(1881~1938)の‘屋島の義経’が青邨の頼朝像とかぶってしょうがない。
歌川国芳(1797~1861)の戯画チック全開の‘大物之浦平家の亡霊’は鑑賞欲を200%刺激する傑作。平家が壇ノ浦に海のもくずと消えてから3年。あれほど功績を挙げたのに義経は兄頼朝に追われる身になり、摂津国大物浦(だいもつのうら)から西国へ向かって出帆した。ところが暴風雨に遭遇、海底に沈んだ平家の怨霊が現れ山のような大波を起こし、義経主従を襲ってくる。闇に浮かぶ亡霊のシルエットはホラー映画を連想させる。船の後方で弁慶が必死になっ経文を唱えるとようやくしずまった。