関心のある事柄が段々膨らんでいき、それと生涯離れられなくなることはい
ろいろある。たとえば、長く続けている美術鑑賞もそうだし、世界史、日本
史のことをもっと知りたいと思い、歴史の本を数多く読んできた。この歴史
好きの心を強く刺激する番組のひとつがBSプレミアムの‘英雄たちの選択’
(昨年末からNHKのBS放送が一つに集約されたが、この番組が続く?かは未
確認)。
先月の中頃ブックオフにでかけたとき、ちょうど1年前に放送された‘英雄た
ちの選択 森鴎外 37歳の転換~小倉左遷の真実~’で知った‘猿沢池の歌’
が載っている本がひょいと目の前に現れた。それは興福寺貫長多川俊映師の
著作‘唯識入門’(春秋社刊 2013年)。そして、‘猿沢池の歌’とは‘手をう
てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池’。(手をポンポンと
打ったならば、鯉がエサがもらえると思って岸に泳ぎよってくるが、鳥は身
に危険を感じて逃げていってしまう。一方、旅館の従業員は、お客さんがお
茶をほしがっているのだと思う)
多川氏は唯識の考え方をわかり易く説明するためにこの短歌を例に使ってい
る。‘手をたたく’というひとつのきわめて単純な動作、それによって発生した
単純な音にもかかわらず、それを受け取る側の条件の違いによって意味が異
なっていることを述べている。この話は分かりやすく腹にストンと落ちる。
これが唯識仏教のエッセンスで‘唯識所変’のこと。逐語的にいうと‘ただ(唯)
識によって変じだされた所のもの’。
この‘猿沢池の歌’が森鴎外の左遷の話とどう関係しているかというと、番組で
は司会役の歴史学者がこの短歌をもちだして、鴎外が37歳のときに出され
た小倉行きの辞令(手をポンポンと打つ)を左遷と考えて失意に沈んでしま
うか、出世争いに熱をあげて神経を擦り減らすよりは頭を切り替えて小倉で
普通に生きているひとたちと楽しく暮らすか、それは鴎外の心の持ち方次第
と解説している。鴎外ファンにはこの話はとても新鮮だった。