デュシャンの‘大ガラス’(1915~23年 フィラデルフィア美)
絵画でも彫刻でもオブジェでも美術作品を鑑賞するのは個人の楽しみのひと
つにすぎないのだが、美術仲間が集まるとその体験が通過儀礼となることが
ある。マルセル・デュシャン(1887~1968)の‘泉’はそんなことを
思わせる作品。美術の専門家でなければこの通常ではみられない形になって
いる男性便器をみて現代美術に最接近したと思う人はいない。ただあっけに
とられ、これがアートなの?と違和感を覚えるのが正直なところ。心を揺さ
ぶり熱く感じさせるものがアートと考えているとここには大きな感動はない。
美術を幅広く感じるようになるには時間がかかる。同じような作品を何度か
みて作家のアイデアや表現したいことに理解が進むようになると、‘デュシャ
ンてすごい美術家だな’と通過儀礼を意識したことを美術好きとの酒の席で言
えるようになる。作家がアートといえばアートになるんだ、と芸術作品の
定義を180度変えてしまったのだから、デュシャンはピカソのキュビスム
よりも革命的なことをやってのけたのかもしれない。
最初のフィラデルフィア美訪問で展示室改修のためみれなかったデュシャン
と念願の対面を果たしたのは2年後の2015年。ありました。ありました!
‘彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも(大ガラス)’は花嫁物語を
こんなガラスのなかに回転する水車や円錐形の濾過器などをみせることで表現
している。よくわからないのはシュルレアリスムの絵画を同じだが、デュシャ
ンの代表作をみたというのは生涯の思い出である。
NYのMoMAにも特別な現代アートをみた気にさせる作品がある。不気味な印
象が強く残るコーネル(1903~1972)の‘無題(べべ マリア)’。小さ
な箱に入っている女の子の人形は細い木の枝で全身を囲まれてており、ホラー
映画で使われる美術の小道具を連想させる。これに対して、シーガル
(1924~2000)の‘バスの運転手’は普段の日常生活で目にする光景そ
のもの。でも、バスの運転席だけを作品にするという発想はすぐには生まれて
こない。そして、存在感を放つ運転手の彫像もとても気になる。
ドキッとするゴーバー(1954~)の作品も忘れられない。板の床にうつぶ
せになっているの男性は腰から下だけしかない。壁のむこうに胴体と顔がある
のか、殺されて体は切断されたのか、いずれにせよ怖いイメージには変わらな
い。そして、太い蝋燭が3本が尻、足の膝の後ろ側に置いてあるのもシュール。
テートモダンでみたのは壁から突き出した片足の三分の一ほど。ソックスと靴
だけの異様な光景だった。